読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

TO BE FREE

〈自分になる〉ために

救い

久しぶりにブログを覗いて、コメントが来ていたものだから、
かつて痛々しいまでに誰かとつながろうとしていた頃のことを
思い出していた。

ふと、心の許容量を越えるノスタルジアにおそわれてしまい、
目が眩んでしまう。
人生からいなくなってしまった誰かのことを、思い出す。

貪るように、かつてのブログを読み返した。
2005年から始まった僕の独白のような文章を、
好きだと言ってくれる人はたまにいたけれど、
僕自身はいまいち自信がなかった。

「気取りすぎている」と「気持ちを正直に出しすぎている」という
一見相反するような理由で、
とにかく照れくさかったのだ。僕の言葉は。

2007年の今・・まだ3年も経っていないのだけれど、
僕には多くの段階を経て、少しだけ距離を置き始めた。
「ある部分での」僕自身と距離をとりはじめた。

センチメンタルを吐露せずとも、日常に幸せは溢れている。
相変わらず、
雨は窓を打つ音は心地よく、
朝一人で淹れる紅茶も美味しい。
それに今の僕には家庭の幸せがある。

笑ってしまうほどに問題なのは、
つまり「家庭の幸せ」ほど文章にして個性の出しにくい話はないのだ。
家の中で完結する幸せは、文章にしたところで大したことにはならない。
感想も、「よかったね」と「おめでとう」くらいしか言葉にならないだろう。

ブログを僕があんなにも書き続けていたのは
(このブログの空白の期間は、ミクシイにいた。)
結局僕が寂しかったからにほかならない。
みんな寂しがりやだと僕は思っているが、
たまたま僕にとっての寂しさの解消が文章なのだ。

それにしてもこうしてブログを覗いてみたりしていることは、
相変わらず僕が「寂しさ」を失うに惜しいと感じているからだ。
おかしな話だ。
救いがない。

いつだったか、「誰か」を好きだった。
いつだったか、「何か」を聞いていた。

僕は、あの頃コメントをくれていたり、メールをくれていたりした
人たちのことを、きっと大切に感じている。
今でも、お互いに日記を通じて、触れ合える距離にいることは分かっているけど、
どうにも照れくさくなってしまう。

どう声をかけるにも、場違いな気がしてしまう。
それは、考えすぎると寂しくて抜けられなくなるので
やめてしまおう。

僕が今試みていることは、
触れ合えない距離での、慰めだ。
誰かにとって、癒しになったり、救いになったりする言葉を、
僕は紡げるのだろうか。

そして、その言葉は最終的に僕自身を
救ってくれるのだろうか。