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TO BE FREE

〈自分になる〉ために

チェコ三日目 2004/2/25


男は目覚めた。
目の前には静かな天井。
目覚めて思ったことは、

「今日はお城に行く」

思ってみて少しだけ笑った。
男は、自分が城に行くという不思議さを笑った。
ホテルの朝は心地よい。
それなのに
ジャン・ポール・ベルモンドのように、
ふてくされた自嘲だけを浮かべて、
男はホテルを後にした。

Stamestka駅で降りた。
駅はとても静かだ。
今日も平日の朝なのだから。
人間の時間的律動から外れることに、
男は少しだけ肩の力が抜けていく思いがした。

地下鉄の長いエスカレーターを上って地上に出た。
長い年月のしみこんだ石が、男の足元に、目前に、広がる。
芸術家の家と呼ばれる建物の荘厳さに一瞬捉われそうになった。
だがその刹那。

男は驚いたような顔をして別の方向に目をやった。
プラハ城だ。
ヴルタヴァ川を挟んだ先には、
圧倒的なスケールでそびえる城。

城が見える場所にあるベンチで男は休んだ。
誰もいない。
雪は少しだけちらついているが、
それがまた情景を美しくしている。
ここは、男にとってまさしくヨーロッパだった。

子供の頃に読んだ、少しだけ残酷な昔話を思い出した。
それはアイルランドの昔話で、チェコとは違うが、
それでも子供時代に植えつけられたイメージと
プラハ城はまったく同じだった。

あの城にはきっと魔女がいるんだ。
屋根裏部屋で機織器をきしませながら、
毒針で塗ったドレスを作ってるんだ。
笑いながら。
そしてお姫様は恋をしてるだろうし、
王様は、世界で一番美しいペルシャのガラスを探してる。

そんなことを考える。
そして男は、
「もし僕に恋人がいたら」と考える。

もし僕に恋人がいたら、きっとこのベンチで二人でコーヒーを飲むんだ。
そして世界で一番の話をしてあげる。
世界で一番のお姫様にしてあげる。
男はそんなことを考えた。

そして再び立ち上がり、城を目指した。
途中に立ち並ぶアパートは古びていて、
取り壊されている。
朝だからなのか、チェコだからなのか、
ごくごく静かに取り壊されていく。
最上階から静かに落とされるコンクリートの固まりは、
プラハ城から安らかな眠りを約束されているんだろう。
そうあってほしい。

カレル橋という大きな橋をわたる。
ガイドブックでは観光客でとても混みあうという話だったが、
時期のせいか、あまり人はいなかった。

橋の両脇にはキリスト教の聖人の像が立ち並んでいた。
男は聖人についてくわしくない。
それどころか何をもって聖人とするのかも分からない。
ただ、30体の石造の中で聖フランシスコ・ザビエルだけは分かった。
小学生の頃、男はザビエルの顔が嫌いだった。

信仰は認識を変える。
人が生きていくために必要とした宗教を
持たずにそれなりに生きていることを、
男はすこしだけ考えた。
だけどそれは男にとって現実的な問題ではなく、
考えを放棄した。
そして問題が現実化されない限り、
僕は放棄し続けるだろう。
ザビエルの恍惚の表情に、苛みながら。
人生は短い。

城に向かう途中に聖ミクラーシュ教会があった。
教会の前には物乞いがいた。
男はなんだか違和感を感じた。
物乞いにカメラを向ける少女がいる。
チェコ人だろうか、観光客だろうか。
まだ10歳くらいと思われる少女は物乞いやゴミ箱にずっとカメラを向けている。
真剣に。

もし少女にしか見えない真実があったとしたらどうだろう。
少女にとって、物乞いが聖人であり、ゴミ箱が箱舟であったなら。
そういえば物乞いも全く嫌な顔をせず、かといって喜んでいる様子もなく
カメラを向けられてただ諦念といったものを顔に浮かべていた。

男は教会に入った。
足が疲れていたので、席についてしばらく美しい礼拝堂を眺めた。
日本でよしとされる侘び寂びなど吹き飛ばすような圧倒的な壮大さ。
男は思った。
教会は、美しくなければならない。
美しさは強さであり、
神とはきっと最も美しきものなのだ。

「わたしはある」という者は、
あるだけでは足りない。

教会を出てからしばらく急な坂や階段が続いた。
少しだけ振り返ると、眼下にプラハの町並みが見える。
ほとんどが赤色の屋根に覆われた中世の町は、
今でも錬金術師や騎士がいそうだ。

それから再び上る。
プラハ城には観光客や学生がたくさんいた。
日本人はちょっと見当たらなかったけれど。
2004年2月25日のプラハ城にいた日本人は僕ですよ。
どなたかお探しではないですか?

イメージの羅列

聖ヴィート大聖堂のステンドグラス。

城の地下の洞窟

錬金術師の実験場

夜な夜な塔から飛び立っていく翼

黄金小径

カフカの家

ゴーレムの伝説

誰もいない通り

おもちゃ博物館

たくさんの人形

レストラン・ビール・ツナパスタ・チョコクレープ

ベルディのCD

広場にぽつんと佇む子供は花を抱える

早めのホテル

早めの就寝

過剰