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TO BE FREE

〈自分になる〉ために

人殺し  きっと僕はなんて言えない

エレファント デラックス版

ジェネオン エンタテインメント

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今日は夕方まで予定がないので、
借りていたDVD2つ目、「エレファント」を見た。
まったくこの映画についての予備知識がなく、
レンタル屋で箱の裏側も見ていなかった。

淡々と、静かに流れるこの映画は、外国の高校を舞台にしている。
取り留めの無い会話、噂、日常、苛立ち、差別。
当たり前の生活。
思い出した、高校生活とは華やかなものではなく、
多分に苛立ちを含んだ日常であった。

そんな中、気弱な男の子が、その友人が、計画する。
校内での大量殺戮。銃による。
銃を手に入れた彼らに悲壮感など無く、かといって爆発した怒りも無く、
ただ粛々と、準備は進められる。
そして決行。
嬉々として進められる殺人。

言わずもがなアメリカのコロンバインでの事件をモチーフとしている。
最初、そのニュースを見たときには、ショックだった。
しかし、それは対岸の火事なのであって。
そんな非日常が訪れることは無いと思っていた。
しかし、この映画を見て思ったのは、
殺人は非日常ではなく、日常なのだ。
彼らは旅行の計画を立てるように、殺人を計画し、準備し、
ヘッドホンステレオのスイッチを入れるように引き金を引いた。
そこまでは、まったく日常的な行為なのだ。
結果が、音楽が鳴るのではなく、人の悲鳴になったというだけの、ありふれた日常。
動機なんて、語るべくも無い。
そんなものは後付に過ぎない。
苛め、教師への反発、成績へのプレッシャー。
そんな動機は、あとから世間が加えたに過ぎない。
理解したいがために、自分と彼等は違うと思いたいがために、
加えられた動機。
しかし、実際に彼らに罪の意識はあったのか、
ただ殺人が楽しいと思った人間と、
僕らに、いったいどれだけの違いがあるというのか。

スクリーンで人が死ぬ、ゲームで人を殺す。
それと、現実に起こる殺人の違いは結果でしかない。
プロセスは同じなのだ。

大学時代友人とよくやっていたテレビゲームのひとつに、
1000人を如何に早く殺せるかというものがあった。
如何に美しく相手を倒せるかを競うものがあった。
(相手の体力がなくなった後にも攻撃を加え続けることで点数を稼ぐ)

彼らが人を殺す原因は僕らで、同じ意味で僕らはいつか人を殺すかもしれない。
そんな世界に僕たちはいるのだということを知れ。
倫理や道徳で救えない領域。
宗教も、最後の一線で無力だ。

不安定だよな、本当に。